高知県吾川郡いの町の仁淀川流域にある小さな和紙工場 -内外典具帖紙店-

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初めに

初代濵田久次、二代目

濵田一、そして三代目となるのが今の内外典具帖紙の基盤を作り、 会社として成り立たせた濵田久一その人です。高知市内に家業の販売部となる事務所兼作業場も作り、 紙売り濵田久一の始まりでした。

そして昭和33年(1958年)伊野町に流れる仁淀川沿いの問屋坂近くに内外典具帖紙株式会社を設立しました。 その頃の伊野町(現在のいの町)では、豊かな良質の楮と最高に純度の高い仁淀川の水、多くの自然に恵まれ、紙を漉く のにも大変良い環境でした。

転機

三代目 濵田 久一

ある日、久一のもとへある依頼状が届きました。その内容は、取引していたヨーロッパの商社との直接貿易を譲る、 ということでした。これが久一にとって大きな転機となります。

久一は初めての機械で、和紙の試験漉きを何度も繰り返し、和紙のサンプルを送りました。そして1970年 150万枚、翌年135万枚のオーダーをとることができました。 当時の金額にして、およそ3,700万円分。1年分あるいは2年分の大口オーダーでした。

気付き

和紙部門のヨーロッパ総代理店が中継業者だった頃、代理店の者はこう言っています。 「ヨーロッパの芸術家は紙を紙として見るのではなく、自分の仕事の材料と考えている。 この紙を利用し自分自身の仕事をするのであり和紙の美しさを求めているのではない。」と。 紙の本質を見た考え方そのものであり、見かけではなく根本でのとらえ方、生かし方でした。

時代の流れ

しかし時代が進むにつれ、人々の生活がアナログからデジタルへと移行していきます。 1971年、弊社内外でもその影響は避けられず、タイプライター原紙の輸出は少しずつ減っていき、 それに代わって染紙に用いられるバチックペーパーや古文書などの修復に使われる(修復紙)が我社の主な商品として、 今度はドイツとの直接取引が始まりました。 そして、国内でも宛名カード原紙は減り書道半紙や障子紙などの開発への取り組みがなされました。

これから

昭和33年―34年、日本紙業株式会社(まる一)を通しての海外への輸出が認められ、通商産業大臣賞、 高知県輸出貢献表彰などを4度も頂いています。1971年からのヨーロッパ総代理店との直接取引は、 古から引き継がれた技術と文化が認められたことの証しであり、また、和紙としてのブランドを持つ町、 いの町を繁栄させました。

一方数少なくなった手漉きでは、濵田家一家の流れを引く濵田幸雄氏が重要無形文化財保持者となり、今でもお孫さんと共に頑張 っています。そして2010年6月19日、濵田久一は86歳でこの世を去りました。 現在は取締役を含めて8人で内外典具帖紙を盛り上げています。

参考文献:昭和48年11月発行 伊野町史より

タイプライターと典具帖紙

我々内外典具帖紙はタイプライターとの大きなつながりがあります。

タイプライター

タイプライターの始まりは1714年、イギリスのヘンリーミルによるタイプライターの開発だと言われています。 19世紀になり、出版業界が増えるに伴い、同時にタイプライターも進化していきました。 又、女性にも可能な職業としてタイピストは女性の中にどんどん広まっていき、それによってタイプライターの需要は 高まっていきました。 タイプライターという長い年月をかけて進化してきた筆記用機械であるタイプライターの広まりにより、 産業は急速に発展、そして女性の社会進出を大きく促し世の中の構造をも変えていきました。

タイプライター②

そして我々内外典具帖紙も、その恩恵にあずかった社会の中の一企業でした。 保存性がよく長くて強い繊維を持った国内産楮で漉きあげられた典具帖紙は、その優れた特性から、タイプライター原紙 として重宝されていました。 ろうを塗った典具帖紙は、タイプライターの金属でできた文字印で打ち込んでも破れることはありませんでした。

工業化、産業の発展が大きく進んだ20世紀。 タイプライターの普及と共に、生産されたタイプライター原紙は国内外へ大量に出されていきました。

タイプライター③ タイプライター④

今、内外典具帖紙株式会社が現在の技術力を手に入れることができたのは、20世紀産業の中心にあり活躍してきた タイプライターの存在を外すことはできません。

いの町と和紙(土佐七色紙)

いの町は高知県の中部に位置し、仁淀川と緑豊かな山々に囲まれ、隣には高知市のある小さな町です。 ではこのいの町でどのように和紙が盛んになったのでしょうか。

昔、いの町成山というところで、一人の旅人が倒れていました。 この人物こそ後にいの町を和紙の町に変えた紙漉きの人、新之丞でした。

新之丞は危ないところを養甫尼(長宗我部元親の妹)に助けられ、そのお礼として、紙漉きの技法を彼女と、家老安芸三郎左衛門に教えました。新之丞は病が治り伊予国に帰ろうとした時、紙漉きの技術が漏れることを恐れた安芸三郎左衛門によって峠で切り殺されてしまいます。

土佐藩が山内一豊に代わると、柿色・黄・紫・桃色・薄緑・薄青・青の七色、土佐七色紙を幕府に献上するようになり、御用紙制度が始まりました。

そして17世紀、土佐七色紙は、大変貴重なものとして扱われ、当時家老であった野中兼山により御用紙保護のためのあらゆる禁止令が出され、厳しく取り締まりが行われました。専売権も一部の者にのみ与えられるなど紙すきの技術は外に漏れないように徹蹄され、その中で紙産業はどんどん発展していきました。

そして明治に入り、紙生産に変革が起きることになります。
それは吉井源太、伊野村(現在いの町)に生まれた一人の紙漉き人の登場でした。当時、新政府になり、新しい文化が入るとともに紙類の需要はどんどん増え、いの村では紙の出荷が盛んに行われていました。彼は紙漉きの新技法と道具を発明し、和紙の大量生産を可能にしたのです。それにより、全国の和紙生産が明治時代最高になり、紙輸送の為にいの町に電車が開通され、紙試験場が設置されるなど、高知県に大きな影響を与えました。

そして、1973年土佐和紙が無形文化財に選択され、1980年には高知県保護無形文化財の指定を受け数々の功績が残りました。

1985年には、いの町に紙の博物館が開設され、いの町の観光地の一つにもなっています。

さらに、2001年いの町から重要無形文化財(人間国宝)が誕生しました。一人の手漉き和紙職人、濵田幸雄氏です。近年、和紙需要の減少、後継者問題で悩む伊野町に、彼の存在は勇気を与えています。

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